大福成長日記

本を読んで心に残った言葉を書いたり、知ったことをまとめたり…

5月11日(土) Presents

 

ー誰かと何かを食べるということの、ささやかながら馬鹿でかいよろこび

 

ーこの鍋で私は料理を覚えた。筑前煮もカレイの煮つけも焼き豚もクラムチャウダービーフシチュウも。はじめてひとりで暮らしたあのアパートに、はじめて男の子が遊びに来たときも、私はこの鍋で料理をした(今でもメニュウを覚えている。ロールキャベツに肉じゃが、クリームソースのパスタというおそろしい組み合わせは、女性誌の「男がよろこぶ料理」特集の上位三位をそのまま作った結果である)。女友達と徹夜して飲み明かしたときは、夜明けに小の鍋でインスタントラーメンを作った。彼女とは未だにどちらかの部屋でよく飲み明かす。試験明けには宴会をしたこともある。そのときは大の鍋でおでんを作った。クラスメイトが十二人もこの部屋に入った。おでんは瞬く間に足りなくなり、中の鍋も動員した。夜中にうるさいと隣室の住人に怒鳴りこまれた。楽しいときばかりではない。実家が恋しくなったとき、失恋したとき、就職試験に落ちたとき、ひとりの夜が意味もなく不安に押しつぶされそうになったとき、私は鍋を取り出した。大鍋で、牛のすね肉をぐつぐつと煮る。玉葱が飴色になるまでひたすら木べらでかきまわす。ホールトマトをかたちが崩れるまで煮る。スープのアクをていねいにすくいとる。汗を流しながら、ときには涙と鼻水まで垂らしながら。そうしていると、不思議と気持ちが落ち着くのだ。だいじょうぶ。なんてことはない、明日にはどんなことも今日よりよくなっているはずだ。鍋から上がる湯気は、くつくつというちいさな音は、そんなふうに言っているように、私には思えた。

ー親しくなるやいなや、私は彼を家に招き、ごちそうぜめにした。すね肉と人参のシチュウだとか、ラムとトマト煮込みだとか、チリコンカンだとか、料理歴にふさわしいものを、すっかり古ぼけた大中小の鍋でせっせと作って。

 

ーくらくらどころじゃない、貧血の手前みたいに目の前が白黒に点滅した。これを恋と言わずしてなんと言うのか。

 

ー正しくて美しくてプラスなことはいつだって肯定すべきで、間違っていてださくてマイナスにしか思えないことはいつだって遠ざけるべきであるという、至極まっとうな計算式が、いつのまにか、私のなかでは通用しなくなっていることに気が付いた。